
なぜ教材研究をノートに残すのか
教材研究は、授業の前にやって終わりになりがちだ。同じ単元に再会するころには忘れている。残すべきは完成した指導案ではなく、そこに至るまでに立てた「問い」だ。
作成
実践する → 振り返る → 忘れる
教材研究は、授業の前に一度やって終わりになりがちだ。教科書を読み込み、指導書をめくり、学習指導要領の解説を確かめて、発問を考える。授業が終われば、次の単元の準備が待っている。
そして、同じ単元にもう一度出会うのは、早くても1年後だ。担当する学年が変われば、数年先になることもある。そのころには、何に悩み、どこに面白さを見つけたのか、ほとんど覚えていない。
授業や学級の経験は、放っておくと次のように流れていく。
実践する → 振り返る → 忘れる
忘れるのは、怠けているからではない。人の記憶とはそういうものだ。だから、覚えておく努力をするより、忘れても取り戻せる仕組みを先に作っておきたい。このノートはそのための場所である。
残すのは「答え」ではなく「問い」
では、何を残すのか。
完成した指導案は、ある教室の、ある日の授業のための「答え」だ。目の前の子どもが変われば、同じ答えはそのまま使えない。一方で、その答えにたどり着くまでに立てた問いは、子どもが変わっても考え直す足場になる。
| よく残るもの | 本当に残したいもの |
|---|---|
| 完成した指導案 | この教材で、子どもに一番出会わせたいものは何か |
| 板書の写真 | なぜその順番で板書を組み立てたのか |
| ワークシート | どこでつまずきそうか、それはなぜか |
| 授業の流れ | 迷った末に選ばなかった展開と、その理由 |
指導案はコード、教材研究はコメント
ソフトウェア開発では、コードを読めば「何をしているか」は分かる。けれど「なぜこう書いたのか」は、コードからは読み取れない。だから開発者は、コメントを書き、設計書を残し、変更のたびに理由を記録する。半年後の自分は、ほとんど他人だからだ。
授業も同じ構造をしている。
| ソフトウェア開発 | 授業づくり |
|---|---|
| コード | 指導案・板書・ワークシート |
| コメント・設計書 | 教材研究ノート |
| 変更履歴 | 実践して見直した記録 |
| バグ報告 | 子どものつまずき |
指導案だけを残すのは、コメントのないコードを残すのに近い。動くことは動く。けれど、少し状況が変わっただけで、どこを直せばいいのか分からなくなる。
このサイトの記事に「作成日」と「更新日」を分けて付けているのも、同じ考えからだ。実践して気づいたことを書き足したら、更新日を変える。書き直した跡そのものが、自分の考えの変化の記録になる。
書くことで、考えが進む
もう一つの理由は、書くこと自体が教材研究になるからだ。
分かったつもりでいたことも、文章にしようとすると言葉にならないことがある。たとえば「わり算には等分除と包含除がある」とは言えても、「なぜ同じ式で表せるのか」を子どもに届く言葉で説明しようとすると、手が止まる。
その引っかかりこそが、次に調べるべきところを教えてくれる。書けないところは、まだ理解が浅いところだ。書くことは、自分の理解の穴を見つけるデバッグでもある。
手で覚えたことを、言葉にして渡す
米袋や野菜のコンテナを毎日運ぶ人は、「この箱はだいたい10kg」と手で分かる。その感覚は、数値を暗記するのとは違う確かさをもっている。
ただ、手で覚えた感覚は、そのままでは誰かに渡せない。未来の自分にさえ、うまく渡せない。言葉にして初めて、読み返したり、比べたり、直したりできるようになる。
教材研究も同じだと思う。授業の中でつかんだ手ごたえは、言葉にしておかなければ、次の年には薄れてしまう。
このノートの約束
これから、自分のために次のことを守っていきたい。
- 単元ごとに1本、教材研究を書く
- 指導案の写しではなく、問い・迷い・理由を書く
- 実践したら、気づいたことを書き足して更新日を変える
- 学習指導要領や資料で確かめたことと、自分の考えを分けて書く
- 子どもや学校が特定できることは書かない
ノートが増えるほど、同じ単元に出会ったときの出発点が高くなる。1年目の自分が立てた問いに、2年目の自分が答える。そうやって少しずつ、授業が自分のものになっていけばいい。
